更新日:2014年11月28日

アララギ派の歌人 古泉千樫

古泉千樫(こいずみちかし)

 伊藤左千夫、斎藤茂吉、島木赤彦らとともに雑誌「アララギ」の発展に尽くし、日本近代短歌史に名を刻んだ歌人、古泉千樫は市内細野の農家の長男として生まれました。彼の生家はすでに建替えられていますが、古い面影を残す椿の井戸を中心に県の史跡に指定され、公園として整備されています。公園内には彼の代表作「みんなみの 嶺岡山のやくる火の こよひもあかく 見えにけるかも」の歌碑が据えられています。

古泉千樫

古泉千樫プロフィール

 古泉千樫は明治19年(1886)9月26日、鴨川市細野に農家の長男として生まれました。本名は幾太郎といい、明治33年(1900)吉尾尋常高等小学校卒業、直ちに同校代用教員、千葉市教員講習所卒業、明治34年(1901)から明治41年(1908)3月まで鴨川市立田原小学校(当時田原村立竹平尋常小学校)に勤務しました。この間、13歳で雑誌「小国民」へ初めて「観桜の記」を投書し17歳で「心の花」及び新聞「日本」に歌を投稿します。19歳のとき「馬酔木」「比牟呂」「鵜川」などに短歌75首を発表し「馬酔木」に寄せた「耕余漫吟」20首中12首が伊藤左千夫に選ばれ激賞されました。
 以後、左千夫に師事し、ふるさとの物語を歌った「みんなみの嶺岡山の焼くる火のこよひも赤く見えにけるかも」は同時期の作といいます。千樫という雅号は20歳になって最初の歌の指導者である、安川文時(柳円)によって用いました。22歳の明治40年(1907)5月12日に上京し初めて伊藤左千夫を訪ね、長塚 節、蕨 真、民部里静、石原 純、斉藤茂吉らと会いました。事情があって田原小学校勤務をやめて、明治41年6月3日上京し、同年10月27日石槫千亦の世話で帝国水難救済会に勤務しました。
 千樫の上京後は、短歌文芸史を歩むような足跡と実作が続きました。明治41年10月森鴎外宅の観潮樓歌会に左千夫に誘われて出席し、石川啄木、北原白秋らを知ります。明治41年10月山武郡山武町の蕨 真の家から「アララギ」が創刊されます。明治42年9月東京の左千夫宅に「アララギ」発行所を移し、千樫は茂吉と編集に従事します。こうして、大正2年(1913)に東京本所南二葉町の自宅に「アララギ」発行所を移し編集人にもなりました。28歳の年でした。大正12年(1923)3月斉藤茂吉と共編の「竹の里歌集」を出版しました。大正13年には歌誌「日光」が創刊され、北原白秋、土岐善磨、石原 純、折口信夫、木下利玄らと主要同人となり「アララギ」と疎遠になります。
 著書には19歳の時から39歳に到る21年間の作品から432首を収めた歌集「川のほとり」(大正14年)があり、門人には安田稔朗、橋本徳壽らがいるが、昭和2年8月11日42歳で死去しました。

古泉千樫歌碑所在地

古泉千樫誕生地・・・鴨川市細野

案内図はこちら(PDF:59.4KB)

汐入公園・・・鴨川市広場

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