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鴨川地区合同祭が令和7年9月13日(土曜日)、14日(日曜日)の両日で行われました。これは、大浦八雲、白幡、日枝、熊野、横渚八雲、諏訪、八幡の7社の神社が続けている合同祭礼。山車や屋台、神輿、担ぎ屋台が巡行し、鴨川地区内に祭囃子が響き渡りました。
潮垢離(しおごり)とは、浜で海水を浴び、汚れをはらう儀式のこと。垢離(こり)とは神仏に祈願するために心身を水で浄めることで、その行を「垢離を掻(か)く」といい、川で行なう場合は水垢離、海では潮垢離、温泉では湯垢離といいます。
各神社では、神輿や山車などがまちへ繰り出す前に海水をかけ、清めの儀式を行っていました。
▲大浦八雲神社の潮垢離の様子。八雲神社から鴨川漁港に移動し、海からくみ上げた海水を神輿や山車にかけていました
鴨川地区合同祭では、市の無形民俗文化財に指定されている「大浦の担ぎ屋台巡行」や有形民俗文化財に指定されている「山王講の山車と人形附高欄入れ木箱」、「諏訪講の山車と人形」がまちに繰り出します。
合同祭は、地域の祭りを通じて受け継がれてきた伝統や文化を間近に体験していただく機会でもあります。
大漁を祈願し、自らの無病息災と家族の安泰を祭りに託し、海の様を表現しようと創作された「担ぎ屋台」。屋台は波間に浮かぶ小舟を、担ぎ手は海を、3本の担ぎ棒は波を、笛や太鼓は漁師の喜怒哀楽を表しているといわれています。
屋台の重さは約1トンといわれ、50~60人の担ぎ手が必要です。合同祭の両日に披露され、大漁を祈り巡行する担ぎ屋台は、全国でも珍しいもので、多くの見物人を魅了します。威勢の良い掛け声や太鼓・笛の音色とともにまちを練り歩く姿は、鴨川ならではの迫力を感じさせるものです。
13日(土曜日)午後5時30分ごろに宮出しが行われ、大浦の八雲神社には多くの方が見物に訪れていました。
▲担ぎ屋台の宮出しに集まった多くの人々
▲八雲神社からまちへ繰り出す担ぎ屋台。神社前の階段や坂道を慎重に下っていきます
▲担ぎ屋台のなかには太鼓の奏者が乗りこみ、力強い音色を響かせます
屋台を担ぐ「水交団」と呼ばれる担ぎ手が身に着ける「緞子(どんす)」。
大浦地区の水交団はかつて、地元漁師の集まりだったとされています。大漁を願い、屋台を担いで練り歩く勇壮な姿を彩るのが、担ぎ手たちの「緞子」です。
鴨川市郷土資料館によると、大正時代以前に水交団の若衆が相撲の化粧まわしを参考に作られたのが始まりで、化粧まわしと同様、一人前になった証しとして、漁師の最初の給料で買って着けていたともいわれています。その後、子どもから大人まで、各家庭で工夫を凝らして制作した緞子を着けるようになったといいます。
「担ぎにくい」などの理由で緞子を見かけることが少なくなる中、文化を残していこうと、昨年の合同祭が終わった10月ごろから市内理美容師の山口春樹さんを中心に制作が行われ、合同祭で披露されました。
有形民俗文化財に指定されている「山王講の山車と人形附高欄入れ木箱」と「諏訪講の山車と人形」も市内を巡行。その精巧な造りや歴史ある佇まいが見物をしている方々の目を引いていました。
山車は、神田祭の25番山車として嘉永4(1851)年に製作、また、恵毘須人形は神田祭35番山車の人形として文政12(1829)年に製作されたもの。
江戸時代後半に、山車は神田新石町、人形は神田白壁町が所有していたものを日枝神社と山王講が明治42(1909)年に購入したものです。また、高欄入れ木箱は山車の制作年を明確に示す資料として貴重なものであることから、同じく文化財に指定されています。
山車と神功皇后人形は、神田祭の5番山車と人形の一揃えで、制作年代は不明ですが、江戸時代後半の1800年代以降と推定されています。
諏訪神社と諏訪講が江戸時代当後半に所有していた神田鍋町から明治43(1910)年に購入。また、神田祭36番山車の源頼義人形は、大正時代中ごろに神田松田町から同神社・講が購入したものです。現在の祭礼では、この2体の人形を1日ずつ交互に使用し、山車の引き回しを行っています。
13日(土曜日)午後3時ごろと午後8時ごろには魅力体験広場に、14日(日曜日)午後4時ごろには安房鴨川駅に神輿、屋台、山車などが集結。
会場では、太鼓や笛の共演、各神社の代表者が木遣り(きやり)を披露するなどして盛り上がりを見せました。
▲合同祭開催に当たって佐々木市長が挨拶