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太海の安寧を願う 慈眼法師の入定塚

ページID:0041905 更新日:2026年4月8日更新 印刷ページ表示

入定塚の概要

江戸時代、下野国(現栃木県)日光から来た慈眼法師というお坊様が、波太(なぶと、現太海)の地にたどり着きました。波太の人々はお坊様を手厚くもてなしました。波太の地は家々が密集し、火災が起こると大事になることを知ったお坊様は、親切にしてくれた波太の人々のため、入定を決意しました。土中に入り、鐘を打ち、一心に祈り続けました。その鐘の音は21日目に聞こえなくなりました。波太の人々は慈眼法師に心から感謝をし、お堂を建てました。以来、波太では大きな火災は起きていません。
今でも命日の4月17日にはお赤飯を炊いてお坊様に供えています。

※入定とは 
禅定に入ることとされ、僧侶が断食修行ののち、悟りの境地に入り即身仏となることを指します。

今に息づく太海の慈眼さま

今から約250年前、江戸時代、徳川家治が将軍だった頃。東北では冷害による飢饉にあえぎ、関東では度重なる大火や水害に苦しんでいました。それらの凶事を断ち切るため、1772年、改元が行われました。「安永」(続く元号は「天明」。)

 そのような中、今の栃木県の日光から慈眼法師というお坊さんが、人々を苦しみから少しでも救おうと、諸国を巡礼なさっていました。たまたま立ち寄った浜波太(「太海」のことを昔は「波太」と言っていました)。情の厚い波太の人々は温かくお坊様を迎え、もてなしました。

 しばらくとどまる間に、ここ波太の人々の大きな心配事が「火炎」であることがわかりました。ちょっとでも火の手が上がったら、山に向かってびっしり建っている波太の家がすべて燃えてしまう。(当時はすべて木造。わらぶき屋根。)村全体の存亡にかかわります。

 お坊様はどうしたらよいか考えに考えました。そしてある日、寝泊まりを引受け、親切にしてくれている家の人に言ったそうです。

「ここが私のワラジのぬぎどころ」

お坊様は、ご自分の人生の役目を「ここ」と決断なさったのです。元号を変えるほど人々が苦しんでいた当時、民衆の不安は今とは比べものにならないくらい深刻であり、それをまのあたりに見てとったお坊様は、何とかして人々の不安を取り除き、少しでも安寧に生きていけるようにしてあげたい、と思われたにちがいありません。ご自分の命をかけてまで。

すべて準備を整えたお坊様は、岡波太にある岩穴の前に、人々を集めて言いました。

「私はこの穴に入り、一心不乱に皆さんの災いを取り除き、この地が火炎にならないように祈り、入定します。」

「入定」とは真言宗の信仰の一つでした。真言宗を開いた空海が835年、人々を救うため永遠の瞑想に入りました。今も高野山で入定していると考えられています。入定とはすなわち、人々を救うために一心に祈り続けること。命絶えてもその祈りは続き、人々を永遠に守ると考えられていたのです。

波太の人々は、お坊様を必死にとめましたが、お坊様の決意は変わりませんでした。お坊様がお祈りとともに鳴らす鐘の音が続く限り、人々は来る日も来る日も竹筒から穴へ水を届けました。そして1778年4月17日。とうとう鐘の音が聞こえなくなりました。

 人々は嘆き悲しむとともに、心から感謝をしました。そしてそこに小さなお堂を建てました。今でも命日には人々がおまいりに来ます。宿元の家の方は、お赤飯を炊き、筍のフキを煮て、お坊様におあげするとともに、人々にふるまってくれます。また浜波太の人々はそれぞれ近くのお堂に集まり、毎月、月命日にはお坊様を慕って、お線香やお茶をあげ、おまいりしに来ます。そうしていつしか「火の用心」は人々の脳裏にしっかりと刻まれるようになりました。

 以来、ここ波太では大きな火災は起きていません。おかげさまで、今私達は安寧に暮らしています。

 

2024年3月3日

地域の方が現在も受け継いでいること

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