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おうちミュージアム「江戸明治の寺社めぐり~鴨川と聖地巡礼」

ページID:0001040 更新日:2021年6月2日更新 印刷ページ表示

企画展の展示内容と資料を紹介します

企画展示ポスター

 鴨川市郷土資料館では、令和元年7月20日から9月29日までの期間で、企画展「江戸明治の寺社めぐり~鴨川と聖地巡礼~」を開催しました。

 企画展では、江戸時代に鴨川市(当時、安房国)から日本全国の巡礼の旅に出た高梨吉左エ門の日記や納経帳、巡礼先の寺社に納めたお札などの資料を中心に、当時の巡礼について紹介をしました。

 今回、それらの貴重な資料について知っていただくため、一部ではありますが、展示された内容と資料を公開・紹介いたします。

六十六部廻国巡礼

 六十六部廻国巡礼(ろくじゅうろくぶかいこくじゅんれい)は、江戸時代以前の旧国名66ヶ国を巡り、それぞれの国の神社またはお寺1ヶ所に法華経を1部奉納するものです。略して、「六十六部」や「六部」とも言われます。

 その起源が鎌倉時代まで遡ると考えられており、元々は修験者により行われていましたが、近世になると庶民の間でも行われるようになりました。

 巡礼の対象となる寺社は、多くは各国の一ノ宮や国分寺でしたが、決められていたわけではない点が、他の巡礼である「四国八十八カ所」や「西国三十三所」と異なります。また、18世紀に入ると1ヶ国1ヶ所にこだわらず、全国数百ヶ所にのぼる寺社を数年から10年近くかけて巡るのが通例となっていきました。

 明治4年(1871)になると、明治政府は、平民が六十六部と称して米銭などの施しを乞う行為を一切禁止しました。そのため、六十六部は今なお多くの謎が残されており、研究が続けられています。

高梨家文書にみる六十六部巡礼

 鴨川市平塚の高梨家に残されてきた史料の中には、江戸時代に高梨吉左衛門が六十六部の旅に出た際に、旅の中で書き留められた日記や、巡礼先からの納経の証明が記された納経帳が含まれており、千葉経済大学地域経済博物館で調査・研究がなされてきました。

 その結果、吉左衛門は、宝暦2年(1752)2月から宝暦5年(1755)5月までの約3年をかけて、全国475カ所の寺社を廻っていたことがわかっています。

廻国日記

廻国日記の画像

 高梨吉左衛門により記された巡礼の日記です。

 宝暦3年(1753)5月18日から宝暦5(1755)年5月6日までの記録を確認することができます。廻国は宝暦2年(1752)2月から始まっていることが確認されているため、約1年3ヶ月分が欠如していることになりますが、吉左衛門の巡礼の足取りを追う上で貴重な資料となっています。

廻国納経帳

廻国納経帳の画像

 納経した証明として納経印をもらったものです。

 現在の御朱印の起源とされています。吉左衛門の納経帳は、計7冊あり、宝暦2年(1752)2月の高蔵山大山寺から宝暦5年(1755)5月に武蔵国高尾山に納経するまでの約3年3ヶ月の記録を確認することができます。廻国日記同様、吉左衛門の巡礼の足取りを追う上で貴重な資料です。

 また、この納経帳は、将軍菩提寺である寛永寺・増上寺の朱印を先頭に綴りなおしています。もしかすると、この廻国が将軍菩提寺から朱印をいただいていることで権威付けを意図したのかもしれません。

信仰にみる旅の変遷

 日本において、人々が信仰や布教のために旅を行ったのは、鎌倉時代頃とされています。しかし、この頃の旅は、有力者や修験者・僧侶がほとんどで、庶民の多くは生まれた土地で一生を過ごしていたようです。

 江戸時代、東海道などの五街道や役場が整備され、交通安全が確保されてくると、庶民の間でも「伊勢参り」をはじめ、「六十六部廻国」や「四国八十八ヶ所」「西国三十三所」などの巡礼が行われるようになりました。一見、閉鎖的な印象のある江戸時代ですが、信仰のための往来は比較的認められており、年間1千万人の人が伊勢神宮へと参詣したと言われます。

 明治時代には、橋や鉄道などの整備が進んだことに加え、地域間の移動が自由になったことにより、巡礼と旅の意味合いはますます離れていきます。汽車での移動は、旅の荷物を「道中行李」から大きな「トランク」へと変化させ、危険なため避けられていた夜間の移動を可能にしました。そして、旅の目的も現在のような、個人の目的に合わせた自由な旅へと変化していきます。

伊勢二見浦真景(絵図)

伊勢二見浦真景(絵図)の画像

 江戸時代、おみやげの定番は、「伊勢神宮の神宮大麻」や「お札」の他、寺社や名所の絵図などが中心となっていました。

 明治時代になり、鉄道などの移動手段が整備されると、おみやげ事情も変化していきます。汽車での移動は、大きなものや食べ物などの持ち帰りも可能にしました。

 資料は、明治時代のものです。

安房国内での巡礼

 今日、「巡礼」といえば「お伊勢参り」や「四国八十八ヵ所」のお遍路さんが一般的かもしれませんが、古くより全国各地で「西国三十三所」や「坂東三十三観音」などの巡礼が整備されていました。

 それは、安房国でも例外ではなく、歴史の古いものでは、鎌倉時代に始まったとされている「安房国札三十四観音」があります。これは、当時、悪疫や飢饉が続いたことに心を痛めた高僧たちが、安房国内の観世音菩薩に御詠歌を奉納したことが始まりとされています。

 また、天正10年(1582)には、頼長という高僧により、「四国八十八ヵ所」を巡礼できない人々の希望に応え、霊場が移され、「安房国八十八ヵ所」の巡礼が始まりました。この他にも、「安房国三十六ヵ所不動」や「長狭三十三観音」などの巡礼の記録も残されています。

 こういった霊場の整備は、安房国内から遠い聖地を目指した巡礼がある一方で、遠方から安房国内の聖地を目指して、人々の往来があったことを意味しており、鴨川市内に巡礼者を宿泊させた際の記録なども残されています。

順礼宿貸帳

順礼宿貸帳の画像

 巡礼者を宿泊させた記録で、元治元年(1865)の宿泊者についての情報が記載されています。

当国大師八十八カ所・観音三十四カ所 道案内

当国大師八十八カ所・観音三十四カ所の画像

 安房国内のそれぞれの巡礼地を効率よく参拝できる順番で記載したものです。

安房国内の各巡礼先一覧はこちら

地図情報

大きな地図で見る(GoogleMapページへ)<外部リンク>

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